北海道コンサドーレ札幌苦難の歴史その2

コンサドーレ札幌の迷走

コンサドーレ札幌思い出したくもない無残な記憶

2002年、コンサドーレ札幌はまさしく迷走していました。

前年からは岡田監督が退任し、得点王ウィルも移籍し、選手は大幅に入れ変わりました。

そんな中、新しい監督として迎えたのは、それまで監督経験のない柱谷監督。

代表選手として活躍していたので、ネームバリューはあります。

ですが、監督としては未経験の素人同然。

うまくいかずに6月には早々に監督交代という緊急事態になってしまいます。

チームの中心である監督が代わるということは、決して良いことではありません。

新しい監督がうまくやってくれるという保証はどこにもないのです。

いわば監督交代は博打のようなもの。

後任監督もうまくいかず、シーズン中に2度目の監督交代となってしまいました。

今度の監督はアシスタントコーチだった張外龍氏です。

チャンさんには迷惑をかけてしまったな・・・。

申し訳ない気持ちでいっぱいです。

シーズン中に1度の監督交代だけでも打撃です。何故なら開幕までに積み上げてきた戦術等を全てナシにして、最初から始めることになるのですから。

それが、2度も。

良い結果が出るはずがありませんよね。

コンサドーレ札幌は16チーム中16位。つまり最下位という結果でJ2リーグへと降格することになりました。

コンサドーレ札幌長引く低迷期

J2暮らしも長くなったもんだ

2003年から2006年までのシーズンはずっとJ2リーグでした。

2004年の柳下監督期にはなんとJ2リーグ最下位でした。

この時期にはJ3リーグがなかったため、J3降格ということがないからこそ、やんつーさんも思い切ったことが出来たのかも知れませんね。

ですが、さすがにJ2リーグ12位で最下位はショックでした。

この頃の低迷期に離れていったコンササポはどれほどの数いたことでしょう・・・。

仕方のないことです。

応援しているチームが全然勝てなければ、試合を観ていても全然つまらないのですからね。

2006年にはフッキ選手が在籍していました。

フッキ選手と言えばブラジルでセレソンとして活躍した選手。

その若いころにコンサドーレ札幌にいたなんて今でも信じられない話です。

フッキ選手が移籍するたびに在籍していたコンサドーレ札幌にも少し移籍金が入ってくるんですよね。

ありがとう、フッキ!

そして、この年は天皇杯でベスト4に進出しています。

これはいまだに天皇杯におけるコンサドーレ札幌の最高成績となっています。

コンサドーレ札幌三浦俊也監督の手で再びJ1へ

コンサドーレ札幌またJ1リーグへ行ける!

2007年、この年から三浦俊也監督になりました。

プロ選手としての経験はないものの、監督として実績を上げている三浦監督。

堅守速攻がウリのサッカースタイルです。

堅実なサッカーは見事な結果を残すことになります。

ブラジル人の点取り屋ダヴィも大きな戦力になりました。

J2リーグ優勝!

やった!

これでまたJ1リーグに昇格だ!

久々の昇格だったので、本当にうれしかったんですよ。

このシーズンは最終戦まで優勝がどこのチームになるか分からず、もつれていました。

札幌ドームで水戸に勝って昇格を決め、同時に他会場の結果からJ2優勝まで決めたことを知った時には、現地観戦していたノースキャットは周りの人たちと喜びのハイタッチ!

そして、涙涙・・・でした。

コンサドーレ札幌やはり簡単ではないJ1定着

2002年以来のJ1復帰を果たした2008年。

ブラジルからクライトンを獲得。

組織的な守備力を強固にするために守備的な選手を多く獲得しました。

が、7シーズンぶりのJ1リーグは甘くなかった。

いや、ものすごく苦かったのです。

前半戦の6月の時点で17位のブービー。

最終的には年間わずか4勝しかできず勝ち点18。

最下位18位という散々な成績でした。

また、J2リーグに逆戻りです。

せっかく、血のにじむような思いで昇格したのに、たった一年でまたJ2暮らし・・・。

辛すぎます・・・。

コンサドーレ札幌新たな監督石崎信弘氏に全てを託す

コンサドーレ札幌石崎監督を迎えて再出発

2009年から2011年の3年間は石崎監督でした。

石崎監督と言えば、東芝サッカー部出身です。

コンサドーレ札幌伝統の赤黒縦縞のユニフォームを考案した人物としてコンササポの間では知られています。

2019年現在も活躍されていますが、当時は柏レイソルをJ1に昇格させた、いわば昇格請負人監督でした。

コンサドーレ札幌は石崎監督を迎えて、再びのJ1昇格を目指すことになります。

ゴン中山氏のコンサドーレ札幌加入

中山雅史選手と言えば、2度もW杯に出場した、いわばサッカー界のスーパースターです。

ジュビロ磐田在籍時には敵として戦い、聖地厚別でまさに目の前でゴールされたのは苦い思い出・・・。

そんな有名な選手がコンサドーレ札幌に加入することになったのです。

一報を聞いた時には驚きました。

コンサドーレ札幌という北海道のチームがゴンさんが加入したことによって、テレビや新聞に大きく取り上げられるようになったのです。

ゴンさんは選手としては、コンサドーレ札幌では結果を残すことができなかったけれど、コンサドーレ札幌という名前を全国区にしてくれました。

コンサドーレ札幌再びJ1へ行くぞ!

2011年、石崎監督3年目のシーズン。

この年、石崎監督はそれまでの外国人頼りをやめて、日本人選手中心にしていきました。

横浜Fマリノスから河合竜二選手加入。

この時もちょっと驚きました。

竜ちゃんなら他のJ1チームが声をかけているはず。それなのにJ2のコンサドーレ札幌を選んで来てくれたのですから。

感謝感謝ですね。

エース内村圭宏選手の活躍もあり、順調にシーズンは進んでいきました。

2011年12月3日最終節。

勝てばJ1昇格が決まります。

が、相手は首位のFC東京です。

絶対に勝たなくてはいけない試合です。

この日、札幌ドームには39,243人という大観衆が押しかけました。

座る席がなくて、通路や立ち見の人続出でした。

ノースキャットは指定席を購入していたので、席はありましたが、入場するのにものすごく時間がかかりました。

おまけに激コミで食料品や飲み物が買えない・・・。

喉がカラカラなのに飲み物がない・・・。

でも、そんなことはどうでもいいのです。

勝てばJ1昇格です!

もうこうなったら、選手を信じて祈るしかない!

結果、首位FC東京相手に内村選手の2ゴールで2-1の勝利!

J2リーグ3位という成績で4回目のJ1昇格を決めたのでした!

コンサドーレ札幌史上最速のJ2降格という不名誉な記録

コンサドーレ札幌J1ってやっぱり厳しい

2012年シーズン、再び挑んだJ1リーグ、コンサドーレ札幌は全く太刀打ちできずに終わりました。

年間勝ち点14。4勝2分28敗 得失点差マイナス63

これがどれほどひどい成績か・・・。

なんと9月29日の第27節で史上最速のJ2降格が決まってしまったのです。

まだ残り7節あるのに、もう降格決定なんですよ・・・。

ひどすぎます・・・。

得失点差マイナス63もひどすぎる。どれほどボロボロの守備だったのか・・・。

それほどJ1の壁は高く、厳しく、苦しいものなのです。

コンサドーレ札幌4回目のJ2降格絶望のどん底

コンサドーレ札幌はエレベーターチームと揶揄される

エレベーターチームとは何でしょうね?

J1とJ2を行ったり来たりしているチームのことです。

もちろん、誉め言葉ではありませんよ。

コンササポにとっては屈辱的なことです。

でも、それが現実・・・。

何しろ、J1に2年連続していられたのは、岡田監督時代のたった1度なのですから。

そう言われてもしようがないのです。

でも、悔しい・・・。

コンサドーレ札幌減る強化費いなくなる選手たち

2013年から2015年までの間、成績はJ2の中位あたりをさまよう日々が続きました。

8位、10位、10位です。22チームあるので、やはり中位ですね。

そんな中でも、今の北海道コンサドーレ札幌を作る芽はまかれていました。

2013年には東南アジア人初のJリーガーとなるベトナム人のレコンビン選手を獲得

2014年7月には日本サッカー界の最高傑作と称される小野伸二選手が加入。

小野伸二選手と言えば、あの小野伸二選手ですよ!

黄金世代の一員で、オランダやドイツ、オーストラリアのチームでも活躍した偉大な選手。

そんな選手がまさかコンサドーレ札幌に加入してくれるとは、本当に夢みたいでした。

入団会見が札幌の観光地テレビ塔で行われたのも印象深いですね。

2015年にはそれまでユースチームの監督をしていた四方田修平氏を途中から監督に据えました。またしても、年度中の監督交代です。

監督交代でいい思い出なんかありません。

この時もいやな予感がしました。

けれど、まさかこれが良い結果をもたらすことになるとは・・・。

きっと、野々村社長は分かっていたんだろうね。

northcatのひとりごと

野々村社長が就任したのが2013年。

この時から北海道コンサドーレ札幌は着実に変わっていたんだよ

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